wikipediaの謎 – 長坂はどこ?漢津も?

  • create 2024/2/8 
  • update 3か月前

先日から色々な方の長坂の戦いの地図を眺めていましたら、長坂が思っていた場所とだいぶん違う地図がありました。
私が中国歴史地図集からプロットした場所(これも正確には少しズレていたのですが)と、明らかにズレが大きいもので、長坂坡=当陽県(近所にあったラーメン屋さんと同じ響き)だとばかり思っていたものですから、wikipediaを覗いてみましたところ、

長坂の戦い – Wikipedia

場所が、現在の湖北省荊門市掇刀区となっておりまして
・・・当陽ではない?のです。
ここですと、距離的にはずいぶん長坂のイメージが変わってしまいます。

この辺りまで含めて一帯が長坂?

実際に荊門市には現在、長坂という場所が存在はするようです。
中国歴史地図集の地図を見れば荊門市一帯は当陽県エリアだったかもといえる風ではあり、現在の当陽~荊門一帯を長坂と呼んだという認識ならばそれはそれでよいのですが。ガイド本や旅游されている方のサイトなどを拝見すると、長坂坡遺跡の住所はやはり現在の当陽となっていますので、さすがにこんなに広いわけないよねとも思います。
逃げてた群衆の最後尾ココで追いつかれた、みたいな話だったらわかるのですが。

wikipediaは怪しい?

以前から、間違っている箇所もあるとは聞いたことがありますので、記述とか何かのミスでしょうか?他にも吉野で関羽と合流とあったり、漢津?ではないのかと思うことも。どこかにそういう文献があるのか非常に気になりますが、力及ばずです。こういうことも多くありますので、やはり注意が必要です。

さすがの名場面、人の力が凄い

今回じっくり長坂の戦い付近を読みましたが、やはりドラマがありますね。
10万を超える民を連れて南へ逃れる劉備も、ついていく民も、阿斗と甘夫人を助けた趙雲はもちろん、曹操軍も好機と見るや走り続けたあたりも、そのエネルギーが素晴らしいと感じます。
また、けっこうな距離が離れている江夏周辺から、援軍が来るのもまた凄い。曹操南征の情報は入っていて、指示が飛んでなのか、はたまた起こりうることを想定し、前もって準備していた線もありますよね。
ギリギリの戦いを生き延びる。色々な人が頭も体もフル回転させて最善の手を尽くす。人の意志の力そのものだと思います。本当にどれだけ人の力が凄いのかと感じます。

老眼でなかなかピントが合わないと、運転免許更新の時に焦りまくった、最近老いを感じはじめた私には、とっても眩しいです。

※ 私が誤っているであろう点も多く見られるかと思いますので、ご留意いただけますと幸いです。

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